.28.2010
言葉というのは恐ろしく幅の狭い表現方法である。
物事に感動した時に「感動した」と発する事で
一体どれほどの事が伝えられるというのだろう。
スピリチュアルでは感情が最も尊重される優先事項である。
感情には百万通りの表現方法があるからだ。
子供の書いた絵にも世界が現れ、人々の感情に変化を与える。
常識、社会意識、集合意識、呼び方は様々だが、これらは人の感情を
殺すようにできている。家畜化された牛豚と同じような待遇を人間に強いて
目の前のごちそうを追わせる仕組みになっている。
感情を取引にするのはやめるべきである。苦痛を差し出してお金を得る事を
許可してはいけない。お金は喜びと共に得るべきである。
人生に失敗した(と思っている)者は
感情よりも社会的な事物を優先してしまった事にある。
社会意識にまだ囚われていない子供の頃、自分が何をするのが好きだったか
考えてみれば、自分がどの感情を得たいのか、何に喜びを感じるのか掴める事が多い。
感情を第一として何事も行動するようにすれば個性が磨かれ道は開ける。
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.26.2010
夢に向かって努力をする人間の中には「特別な存在になりたいから」
という理由が最重要項目である者も少なくない。
特別な人間になれば幸せになれると思っているようだが、残念ながらそうはいかない。
では実際に「特別な人間」になればどういった変化が起こるのかを考えてみよう。
まず自分が特別であるならば、特別な対応をされなければならない。
一般人と同じような扱いをされるのは我慢のならない事だ。
つまり一般人と同じように扱われる度に機嫌を悪くしなければならない。
また自分が特別である為には、周りの人間の多くを「平凡な人間」と定義しなければならない。
それ故に日常がつまらない物になるのは避けられない。
自分が見ようとしない物は見えないのが世界というものである。
そして特別である事の、一番の悲劇と言えば、
「いつかその特別な要素を失ってしまう」という事である。
容姿の優れた者は容姿の衰えを、
多くの財産を所有している者は失う恐れを、常に抱いて生きる事になる。
何にせよ必要なのは、それを特別だと思わない事、つまりは執着しない事である。
誰もが特別であると理解すれば、無い物ねだりをする事はなくなる。
自分が特別だという思考は、事実をねじ曲げて解釈しているだけに過ぎない。
完全に自分を非特別化し、自分にできる事を考えた時、初めてその人の特別性が見えてくる。
執着を捨てるというのは事実を目の当たりにするという事なのだ。
.12.2010
「今この瞬間」しか幸せになる道は無いという事が
数多の偉人が唱えている説だが、では具体的にはどうすればいいのだろうか。
これはエックハルト・トール氏の「ニュー・アース」に分かりやすく記されている。
「第一義的な事」に焦点を合わせるというやり方だ。
例えばあなたが将来自分にしかできない、重要な仕事をしたいと思った時
今やっている面白くない仕事に焦点を向けなければならないという事だ。
なぜなら将来やりたい仕事は二義的な事で、今現在やっている仕事が
(その仕事をやっている瞬間には)第一義的な目的になるわけだ。
私生活でも同じで、将来送りたいと思っている生活は二義的な事で
今送っている生活こそが、今後の人生全てに
影響を与えうる尊い瞬間だという事である。
つまり同じ面白くない仕事、面白くない生活でもそこに意識を与えて、
すなわち「どんな気持ちで取り組むかによっていかようにも変わる」という事だ。
それなりの地位にいる人間には分かると思うが、仕事というのは
一生懸命やる事によってやりがいが生まれ、
次のステップが与えられるものである。
次の休みの事を考えながら仕事をしている人間とは、
成長のスピードが大きく異なるのも頷けるだろう。
今やっている仕事がどれだけ人の役に立っているのか調べ、
考えてみる事をオススメする。
そして今の仕事をどんな気持ちで取り組めば、
更に多くの人の役に立つのかも考えてみよう。
私生活の充実のさせ方も同じである。
自分がどう「在れば」他人と調和して関係を築く事ができるかを考えてみよう。
注意深く観察すれば、自分のエゴやこだわりが見えてきて、今まで下らない事に
こだわっていたと笑い飛ばせるようになるはずである。
.02.2010
ここで一度、自分の思考と幸せについて結論を出してみたいと思う。
私の主張はクリシュナムルティというインドの聖人の言葉の中にある。
彼は思考が全ての元凶であると説く。
だが、思考が無ければ社会的な活動は一切できない。
このあたりは右脳と左脳という言葉を使った方がいいかもしれない。
以前話した、脳卒中で右脳だけの世界に入ったジル・テイラー女史は
左脳、思考が止んだ状態で幸福を感じた。
だが実際に止んだのは思考では無く、「連想」である。
右脳の世界では文字も記号にしか見えないほど連想の能力が失われる。
つまり結論として、連想が思考を繋ぎ人の行動を操っている。
人が言われなければ「今この瞬間」に居られないのは
脳が常に連想を繰り広げ、人格を形成し、行動を操っているからだ。
気がついたら、大切な休みが終わっているのも無理は無い。
みな過去の反応パターンによる連想で自動操縦されながら生きている。
その中で幸福を探そうとしても、自動操縦されている事にすら
気づいていないのだから、困難なのは当然だろう。
大切なのは思考と連想が問題を作り出しているという事を理解し、
受け入れる事にある。というかそれしか無いかもしれない。
クリシュナムルティは思考と思考者と観察者という言葉を使って説明している。
自分が、自分の思考の観察者となり、自動操縦の現状から一秒でも多く
抜け出した状態で居る事が、幸福への道になると言えるだろう。
.10.2010
思考は全て過去か未来の妄想でしか無い事は以前に話したが、
今この瞬間を大事にするとはどういう事だろうか?
今この瞬間しか存在しない事を知ると未来に何かを求める事が無くなる。
これは目標とは少し意味が違う事を考えていく。
「目標」とは今現在の状態から推測できる未来の状態であって
普段、我々が欲しがっている未来というのは、
「今は無くて未来にあって欲しいもの」である。
意識的現実創造への道①で話したように、欲しがる物が得られないのは
今この瞬間が全ての未来を決定するからだ。このあたりを今回は話していく。
一般的な疑問として浮かんでくるのが、「死ぬ気で働いてお金を稼げば
誰でも不幸な現実から幸せな未来に行けるじゃないか」という意見だ。
確かにお金は増えるが、エネルギーの話となるとどうだろうか。
死ぬ気で働いてお金を得るまでの間に負のエネルギーを自分にも周りにも与えていく。
その状態でお金を得ても散りばめた負のエネルギーがいずれ自分に返ってくる。
ここでエゴの強い人間は他人や周りのせいにして受け入れる事を拒み
更なる負のエネルギーを蓄積していく。これが幸せになれない人のメカニズムだ。
お金を最優先に持ってきてはいけないというのもこれで説明がつく。
お金を稼ぐのは素晴らしい事だが、それは誰かを幸せにした結果で無ければならない。
自分が楽しんで情熱を捧げた結果で無ければならない。難しいだろうか。
やりたい事がお金を稼げない事かもしれないが、気にする事は無い。
あなたは「自分が欲しいのはお金だ!」と言うかもしれないが、
実際にあなたが欲しいのは「お金で買える物が与えてくれる感情」だ。
あなたが欲しいのは感情なのだ。ならばお金に限定する必要は無いだろう。
今この瞬間から心がけるだけならば何も努力はいらない。
幸せになるには今しか無い事に少しでも気づいて頂ければ幸いである。